この若宮丸模型は去る3月11日の津波のため破壊され、残念ながら失われました

千石船復元模型「若宮丸」は江戸中期における石巻千石船の主力とされた800石積船の縮尺6分の1模型。全長4.3m 幅1.3m 高さ4.2m 20反帆  「若宮丸」は、今日の石巻の礎を築いた千石船の歴史と文化を伝えるシンボルとして市民の浄財を募り、平成9年7月に石巻にて建造されました。                                                                                        設計・製作 高橋 盛
写真は、北上川を帆走する「若宮丸」 
「若宮丸」はこれまで各地での展示や、石巻市川開きパレードなど街づくりの一助として活躍してきました。平成9年7月20日の北上川河口においての進水式では、100名余りが出席し上流の内海橋まで帆走しました。仙台駅コンコースでの展示やこれまで十数回にわたり展示してきました。毎年恒例の行事では、北上川フェアに「若宮丸」と歴史パネルを出展しています。8月の石巻川開きパレードではオリジナルの歌と踊り(奥州千石船)で例年120名ほどがパレードに参加しています。

歴史にある若宮丸

歴史にある若宮丸は,石巻湊米沢屋平之丞の持ち船で800石積24反帆,16名が乗り組み寛政5年(1793)江戸に向け石巻湊を出帆した。積荷は仙台藩御用米1332俵と御用雑小間木400本であった。途中,福島磐城沖で暴風に遭い漂流しアリューシャン列島のアッカ島に漂着する。この島で,沖船頭の平兵衛が病死したが津太夫以下15人はロシアの貿易商人と出会い助けられる。バイカル湖の南にあるイルクーツクに8年間滞在したあと,亨和3年(1803)首都のペテルスベルグで皇帝アレクサンドル1世に謁見し,同年6月津太夫以下4名はロシアに帰化して通訳となった善六と共に日本に向かう。クルーゼンシュテルン率いる軍艦ナディージダ号はロシアの軍艦として初めて世界一周するとともに,若宮丸水主も日本人として初めて世界一周したことになる。軍艦ナディージダ号はバルト海のクロンシュタット港を出帆し,南アメリカのホーン岬をまわりマルケサス諸島、ハワイ島、カムチャッカを経由して文化元年(1804)9月6日長崎へ入港する。帰国した4人はその後,幕府の厳しい取調べを受け,文化3年(1806)3月に津太夫と左平は寒風沢へ,儀兵衛と多十郎は室浜へ帰郷した。

高田屋嘉兵衛と通訳善六

若宮丸乗組員のうち、石巻村出身の善六はイルクーツクで洗礼を受けギリシャ正教徒となりロシアに帰化する。ロシア名はヒョートル・キセリョフと名乗り日本語通詞として、亨和3年(1803)に千島列島に漂着しカムチャッカに送られた下北・慶祥丸の漂流民の通訳としても活躍した。軍艦ナディージダ号で日本にきた遺日使節レザーノフの露日辞典の編纂に協力する。この辞典には石巻方言が多数あり、言語学上貴重である。文化8年(1811)のゴローニン事件では箱館(函館)において,高田屋嘉兵衛との通訳を勤めた。この露日辞典は平成6年発見され,翻訳されている。善六はイルクーツクの日本語学校の教師として後半生を送ったという。
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