平成7年、石巻千石船の会が発足した頃、我が家の土蔵より「永福丸漂流記」の写本を見つけだしました。何時か、「ふるさとのかたりべ」で紹介しようと構想を暖めてきました。さて、昨年の12月に石巻若宮丸漂流民の会が設立されました。鹿児島県ではゴンザファンクラブ、鈴鹿の大黒屋光太夫顕彰会、大阪の伝兵衛友の会(仮称)、名古屋の重吉友の会(仮称)、などが出来、全国的に街づくりに過去の歴史を生かそうとする機運が高まっています。この3月23日には大阪で漂流民のシンポジウムが開かれます。この機会に、この号では石巻に関係した国外への漂流を紹介しましょう。今、私の手元に「永福丸漂流記」と「大乗丸漂流記」のコピーがあります。まだまだ、資料は不足ですがこの機会にこれまでわっかたことを私なりに記してみます。江戸時代に記述された漂流記は百数十件もあるそうです。国外への漂流では、北は千島列島、カムチャッカ、アリューシャン列島に漂着しロシアに送られたもの、韓国、台湾、中国へのもの、南はフィリッピン、ベトナム、なかには北アメリカへ漂着したものもありました。また、19世紀になってアメリカの捕鯨船が日本近海に来るようになってからはそれらの船に救助される千石船の数が増加しました。漂流民たちは、ハワイなどに送られ中国を経由して長崎へ送還されたのです。鎖国時代に命がけで漂流し、海外体験をした船乗り達の思いは今では想像もつかないような体験だったことでしょう。

漂流  生死を賭けた船乗り達の異国体験

2002年1月31日発行

ふるさとのかたりべ49号

石川県羽咋富来町 金比羅神社に奉納された絵馬

永福丸漂流記

我が家にある永福丸漂流記は、表題が「日本人唐国漂流長崎送届帰国之記」 牡鹿郡小竹浜六兵衛船というものでです。陸奥国小竹浜(石巻市)の六兵衛船、永福丸は16人乗り、26反帆から推測して千石積にならんとする当時としては大型船であったと思われます。(阿部屋新七の泰亨丸は28反帆で千五百石積)乗組員は沖船頭湊村の佐五平以下ほとんどが石巻出身者でした。
舵取    門脇村     長右衛門   浄土宗    40才
水主    湊村       三郎次    一向宗    41才
同      湊村      紋十郎     禅宗     33才
同      湊村      彦四郎     禅宗     40才
同      湊村      兵吉       禅宗     22才
同      小竹浜     久六      禅宗     37才
同      小竹浜     左平治     禅宗     26才
同      石巻本町   長松       禅宗     32才
同      石巻中町   福四郎     禅宗     48才
同      石巻蛇田   長之助     法華宗    33才
同      野々島     茂七      禅宗     38才
同      寒風沢     金四郎     禅宗     38才
同      寒風沢     徳三郎     禅宗     32才
同      宮戸月浜    弥四郎    禅宗     39才
同      湊村       市五郎    禅宗     13才
沖船頭   湊村       佐五兵衛   漂着後38才で死亡 
乗組員の名前はこの漂流記にはなく、川合彦充著の「日本人漂流記」の記述によります。昭和53年に石巻市市史編纂委員、橋本昌氏、佐藤雄一氏、毛利伸氏が米沢市図書館の「鶴城叢書」で永福丸漂流記を見つけ出し、佐藤雄一氏が「伊寺水門第2集」で解読、紹介しています。これは「仙台領小竹浜六兵衛船南風ニ逢唐国漂着書」というものです。内容には若干の違いがありますが、これも参考にさせていただきました。さて、永福丸は安永三年(1774)午10月朔日、田村下総守の御穀を積請け、石巻川口を出船、同11月18日浦賀へ着船し、翌19日江戸深川へ乗り込み荷役をしました。冬場で風に恵まれなかったせいか浦賀まで1ヵ月と18日もかかっています。荷役後、同27日出船、浦賀にて御改め申し受けて出帆しました。12月4日、平潟沖で碇泊していたところ6日の朝方より南風になり塩屋崎まで走りましたが、北西の風に変わり碇3頭で繋ぎ懸かりましたが、大波高波で危険なため碇を巻き取り、ついに沖へ流されました。一同髪を切り、法華を唱え、帆柱も切り倒しましたこの辺りの描写は迫力があり、皆様に紹介したいところですが紙面の都合で省略します。翌、安永4年(1775)3月6日、清国福建省泉州恵安県の小島に漂着しました。漂流記では「此処は名は楓風と申す処の由後にて承り申し候」とあります。永福丸の16人は、この島より漁民に救助され、中国の銭をたくさん恵まれ、手厚いもてなしを受けます。3月17日、福州の法海寺というお寺に止宿され、日本語が少し出来る陳八官、龍官という二人が通弁にあたりこれまでの事情を話しました。沖船頭の佐五兵衛は、以前より病気でしたが医師の投薬のかいもなく4月11日に死亡しました。清国の人達が埋葬の世話をして暮れ墓石も建てられました。墓石には次のように刻まれました。 乾隆四十年 日本陸奥国 番佐五兵墓 四月十一日身故 墓石は、高さ2尺5寸ほど、幅1尺5寸ほど、厚さ8寸の見事な石でした。
4月22、3日頃、新たに5人の日本人漂流民が送られてきました。安永4年(1775)清国へ漂着した相馬領久ノ浜次郎右衛門船で船頭は同領木戸浜の梶平、水主は六兵衛、作兵衛、金右衛門、次平の5人のりでした。この船は五十集荷物を積んだ小型船で南風に逢い清国へ漂着したものです。2組、20人となった一行は、5月27日にここを出帆し、6月11日に南京の内の術口という所へ到着しました。3月17日より5月25日まで、法海寺にいる間に見聞した事柄や風俗、また、術口での様子が詳しく記述されています。11月18日、20人を10人2組に分け、2隻の船でここを出帆しました。この船は長さ22、3間、幅7間程で83人乗り、帆柱は3本で中柱は8丈程、前後の柱は5丈程、帆は竹を葺いて組んだものと記述してあります。千石船より一回り以上大きいジャンク船でしょうか。2隻の船は12月5日と11日に長崎へ入港しています。長崎で吟味を受け、翌年8月9日に長崎を立ち、大阪まで海上を通り、甲州を経て江戸へは9月4日到着、仙台へは同24日に帰り着きました。約1年10ヶ月ぶりの帰郷でした。最後に清国から持ち帰った品々が記してあります。これは若宮丸に遡ることちょうど20年前の出来事ですが、今では小竹浜の人に聞いてもまったく分かりません。今後新しい手がかりは発見できるでしょうか。

大乗丸漂流記

手元のある大乗丸漂流記のコピーは表題が「安南国漂流人帰国物語」と云うもので、これは故橋本昌先生の資料からいただいたものです。巻末に、牡鹿郡大瓜村棚橋の佐藤氏が天保4年に写本したと記述があります。奥州名取郡閖上浜彦十郎所持の南部御穀船大乗丸(25反帆)は、沖船頭清蔵、水主合わせて16人が乗り組み、寛政6年(1794)9月中旬新御穀をつみ石巻を出船しました。寒風沢で風待ちをし、同27日江戸へ向け出船します。同30日、房州新湊沖で荒天になり沖吹き流されてしまいました。帆柱を切り、積荷の米千二、三百俵を海中に捨て流されるままでした。閏11月20日、西方に漸く山を見出し、翌日、沖の根に乗り上げ22日に漁船に救助されました。西山という所に連れてゆかれ、文字で安南国(ベトナム)であることが分かりました。ここで、橋本先生の記述の中に興味のあるものがあります。 松本信広著「ベトナム民俗小史」に次の一節がある。<寛政年間ベトナム西山小村に漂着した日本の石巻の船頭が嘉定(シャデイン)に連れられて国王と謁見させられるが、おそらく日本を知ろうと知ると当時の院福映(グェンフクアン)後の嘉隆(ジァロン)帝の意志によるものであったろう>宮城郡塩釜村桂島出身の沖船頭清蔵は、出港前石巻の書店で国語辞書「和漢無隻之袋」及び「大々節用方字海」を買い求め、船内で勉学に励んでいた。<西山小村へ漂着せし時も、国詞(安南語)知れざる内は、二冊の本にて文字を見出し、認め候節などは官人通詞(政府の通訳)までも珍しく存じ、本を貸しくれ候申す>という枝芳軒静之の「漂民聞き書き}の一節は、日本の辞書が日越両国民の相互理解や友好を深める絆となった契機を語り伝えていよう。国王の懇望され「和漢節用」を献上した清蔵は安南で病死。乗組員随一の物知りで、帰国の際国王から安何国の家庭百科事典「君家至宝万備全書」を餞別の贈られた銀三郎(注、漂流記では源三郎)も長崎港で病死した。乗組員中の生存者8名(石巻出港当時16人)は、寛政9年6月17日、江戸藩邸で伊達周宋に招見された後帰郷した。ただ一人の石巻出身者周蔵は6月末、牡鹿大肝煎り石井庄五郎に呼び出された委細報告した、と鹿立浜平塚利右衛門氏所蔵の寛政10年の写本中にあり、石巻図書館所蔵の古文書「地附留」にも文政9年(1824)の関係往復書簡がある。4月1日付けの照会文の件名は「石巻村彦吉倅周蔵儀安南国へ漂着帰村後病死御届つかまつらざる儀御聞き届けのこと」8月1日の回答内容は「周蔵は門脇の者にて同町山形屋六三郎婿に相成り居り、亨和2年(1802)8月病死つかまつり候」周蔵が門脇村に帰郷後、わずか5年間の余生をどのように過ごしたかは知るよしもない。 以上は。昭和55年石巻河北の「つつじ野」に「辞書がとりもつ国際親善」として書かれたものです。(一部省略) その後、12月20日に安南国の城下に移され国王の厚遇を受け、翌年4月まで滞在しました。この間に6人が病死してしまいます。残りの10名は、寛政7年(1795)4月17日にオランダ船で出帆、広東より2隻の清国船で長崎へ送られ、11月22日と12月10日に帰国しました。長崎での取調べ中、源三郎が病死してしまいます。仙台城下には約2年後に帰り着きました。無事帰り着いた8名の者は次の通りです。
石巻門脇    周蔵  25才     浦戸桂島  清蔵   43才    浦戸桂島  忠吉  33才  
浦戸野の島  幸太郎 32才     寒風沢   平五郎  25才    寒風沢   紋次郎 23才  
宮戸月浜   巳之松  22才     寒風沢   平吉   16才
以上が大乗丸の一件です。  この他に、関係する漂流について以下に記します。

気仙沼 春日丸

 宝暦2年(1752)12月、大島屋加平衛船(20反帆13人乗り沖船頭伝平衛)が塩魚、昆布、タバコなどを積んで銚子へ向かう途中に仙台沖で漂流、翌年3月に清国浙江省舟山列島花山へ漂着、同年12月清国船で寧波(ニンポウ宝暦4年(1754)正月、長崎へ送還された後、1年8ヶ月ぶりに気仙沼に帰郷する。240年後の平成4年浙江省舟山市市長が気仙沼を訪れた際、沖船頭伝兵衛の末裔佐藤亮輔氏がお礼の挨拶をする。翌年、舟山市へ千石船の模型(新沼留之進氏製作)を寄贈、浙江省へ春日丸の調査を依頼する。「春日丸伝兵衛漂流記」西田耕三著がある。

折の浜 最吉丸

安永三年(1774)11月、石巻折浜の十平衛船,最吉丸(23反帆14人乗り)が常陸沖で漂流、翌年4月に清国広東省潮州府潮陽県に漂着。乍浦(サッポ)で水主幸助が病死。残りの13人は,2隻の清国船で安永5年(1776)正月と2月に長崎へ帰還。翌年4月、支配勘定上野勘右衛門が帰府の節に召し連れ長崎を立つ。

北半田 観音丸

天保12年(1841)10月,陸奥国伊達郡北半田(福島県桑折町)の重吉船観音丸(17反帆8人乗り500石積)沖船頭石巻村甚助が、城米を積んで江戸は向かう途中、房州沖で漂流、翌年7月フイリッピン・サマル島付近の小島に漂着。護送される途中2人が死亡、カヴィテ、マニラ、香港を経て10月上旬マカオに到着。天保14年6月9日に乍浦へ着き、摂津船永住丸、加賀船松徳丸の漂流民9人とともに2隻の清国船で12月に長崎へ到着する。船頭甚助はまもなく病死、残りの5人は天保5年(1844)長崎を立ち江戸へ送られる。「呂宋漂流記」大槻盤渓著がある。(別資料では観吉丸としてあります)
 江戸時代200年以上の鎖国の間,図らずも海外へ行くことが出来たのは船乗りだけでした。海外で知りえた見聞は当時の日本の学者に大きな影響を与えたでしょう。また,ロシア,アメリカなどにとっては開国を迫る重要な鍵となり,日本の歴史を変える要因となりました。これらの事実を忘れることなく大切に守ってゆきたいものです。
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