石巻湊と千石船

 江戸時代、全国十六津に数えられ奥州随一の湊と称された石巻湊は、仙台藩の買米制度による米を江戸へ輸送することで大きく発展しました。伊達政宗の命により、川村孫兵衛重吉が北上川の改修(元和-寛永年間、1626頃まで)を行ったことで藩内はもとより南部藩、一関藩、八戸藩などの米が北上川舟運で石巻へ集積されました。往時は、石巻に仙台藩の米蔵47棟をはじめ南部藩、一関藩、八戸藩の米蔵が立ち並んでいました。

 江戸へ米を輸送する初見は、元和6年(1620)今の岩手県水沢から江戸までの米通判が残っていますが、仙台藩による江戸廻米が始まるのは寛永9年(1632)からといわれています。江戸への廻米は、最盛期では30万石にも及び、平均で15−20万石であり、江戸で消費される米の量の3分の1にも達した。千石船(仙台藩では御穀船と呼ばれた)の数も宝暦6年(1756)の調べでは、御穀船として410−800石積船が96艘(船主55人)、商荷積船として250−600石積船が383艘(船主数不明)、ひらた舟など川舟が838艘と伝えられています。

明和7年(1770)発刊の水路誌「日本汐路の記」には石巻湊について次のような記述があります。 仙台石の巻−東海第一の大湊である。この川(北上川)は南部迄続く。ここから金花山(金華山)までは皆良い湊である。小竹の湊に小島が二つある。ほうきの浦の沖にたしろ島(田代島)という島がある。小淵は石巻より六里下である。湊の入り口にさめ島という小島がある。この左右より通船する。相川(鮎川)の沖にあしま(網地島)という島がある。相川の下の出鼻が黒崎である。黒崎と金花山の間は7丁。

 元禄2年(689)石巻を訪れた俳人松雄芭蕉は「奥の細道」に「こがね花咲くとよみ奉る金花山海上に見わたし、数百の廻船入り江に集い、人家地をあらそいて竃の煙立ちつづけたり」と記しています。

享保年間の石巻絵図

 石巻の造船界の祖といわれる中村庄右衛門定春は、今の兵庫県明石の出身で寛永12年(1635)仙台藩に請われて造船技術をもたらすため石巻へ来ました。翌、13年伊達政宗に拝謁し、御座船棟梁兼船横目棟梁の役を命じられ、6人扶持切米5両を与えられました。二代目中村庄右衛門勝行の時、仙台藩主御座船「鳳凰丸」「小鷹丸」「孔雀丸」を建造し、以後、代々船横目棟梁を勤め、幕末まで多数の千石船を建造しました。建造場所は、北上川の上中瀬、中瀬といわれる中州であったが、上中瀬は現在は消失しています。中村家の記録は中村家家譜として残っており、15代目当主は東京に在住しています。また、初代中村庄右衛門と一緒に明石からきた大工の末裔は明治以後、造船所を経営し漁船などの建造に従事しています。

 石巻の千石船はほとんどが本石米と呼ばれる仙台藩の米を江戸に送るため運用されたが、米のほか、大豆、荒銅、木材、魚粕、海藻などの海産物も運んでいました。江戸からの復路では古手(古着)、木綿、太物、薬種、お茶、砂糖、陶磁器類などを運びました。古文書の記録では、江戸のほか、箱館(函館)、松前、エトロフ島などや、秋田、新潟方面まで航海していました。蝦夷からは海産物を運び、石巻から米を箱館に運んだ記録もあります。また、三陸地方の飢饉の時には、新潟や秋田から仙台藩へ救援米を運んでいます。別の記録では、下北半島の大畑や津軽半島の三厩などから大量の檜材(青森ヒバ)を江戸、大阪へ運んでいます。石巻の千石船は数も多く、それに伴い海難も多く発生しました。千石船の遭難記録は、寛文3年(1663)石巻を出帆した船が喜界島に漂着したのが初見であるが、幕末までの240年間に200件以上、1500人近くの乗組員が犠牲になったと思われます。中国、フィリッピン、ベトナムなど海外に漂着した船も5隻ほどあり、寛政5年(1793)アリューシャン列島に漂着した「若宮丸」の乗組員4名は、ロシアから長崎へ送還されるのに伴い、始めて世界一周した日本人として、また、ロシア使節レザーノフの通訳を務めた乗組員の一人「善六」はレザーノフの日露辞典編纂に携わっています。

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